![]() | ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序 通常版 (2008/05/21) 三石琴乃林原めぐみ 商品詳細を見る |
童貞臭がなくなった新EVAに見るべきところはない。ドラマ性が急激に薄れ、ふつーの平板なロボアニになった。こんなものは重度のEVAマニアだけが見ればよい。
出来も内容も予想の範囲内で、終盤以外展開が異様に冗長の上、説明不足。絵も終盤以外は旧版と大差ない。これでは、二次創作でももちっとマシになるだろう。
EVAの特異点は、どこまでも妄想を膨らませ、妄想とは違う現実を拒絶していく、痛々しいまでの童貞臭にあったと見る。しかし、新EVAにはそれがまるでなく、「かつては俺ら痛かったよね?w」的な同窓会的な内輪受けの様相をていしている。こういった一見さんお断りな作風に以前のような痛さはなくなったが、キモくもなった。昨日童貞捨てて、いきなり童貞に説教しだしてるアホって感じのキモさ。
中盤のミサトとの「肉の感触」を強調してるシーンは、新EVAにとって象徴的な意味を持つ。それがさりげなくないから、またさらにキモい。終盤、「肉の接触」があったミサトの信頼を受けたシンジは、すべてをよい風に解釈しだし、現実が好転しだす。このシンジの思考回路は、あまりに脳天気なステレオタイプに見えてしまうのは私だけだろうか。
また、こういった旧版から痛さを取り除いた作風の変化は、富野の新約ゼータの発表前ならともかく、前例ある中でやられても、評価しづらい。というか、よくもまぁ直後に同じやり方を採用したものだとあきれてしまう。
ついでに、内容もあまりに、新約ゼータに影響受けすぎである。(詳しくは、新約ゼータのラスト見よ)恥じらいもてらいもなく、新約ゼータのラストをマに受けるサマは痛さを超えて、キモいとしか言いようがない。
思えば、童貞臭さこそがEVAの持つ作家性だった。
テレビゼータの「コミュニケーションがそれなりに取れる状態での人間不信ここに極まれり」な作風も作家性だったと言える。新約ゼータは見ればわかるように、それがなくなれば、ゼータは凡庸な作品だ。しかし、凡庸でも、新約ゼータは最初に「作風の書き換え」をやったから許された。つまりは、新約ゼータの作家性は新しい手法にあったと言える。
さて、新EVAだが、上記のとーり特筆すべき事項はない上、やり口もあまりにあまりだ。誰がやろうと(手法を生み出した富野でさえも)、露骨な二匹目の土壌狙いなんかは評価外と、私は見る。
というか、嫁さん得て童貞臭を失ったために、創作の動機も意欲も失い、駄作を連発するようになった。だから、目先の目新しさをパクった。それがあまりに見え見えであろう。
どんだけいつまでも富野に引きずられてんだ?
いや、どんだけカッコつけてんだ?


